唐招提寺建立

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755年中国では安禄山の乱が勃発、唐の全盛は終焉。

鑑真は西ノ京の新田部(にたべの)親王(みこ)の給地を賜り、精舎を営んで建初律寺と号した。新田部親王は薨去天平7年9月30日(735年10月20日)なので邸宅は息子の塩焼王(のち氷上真人塩焼)と道祖王の兄弟に相続されて住んでいたかと見られる。756年聖武上皇崩御の後、道祖王、皇太子。素行悪く廃され、塩焼王も橘奈良麿の乱に加担したとして臣下降格。鑑真はその没官地(もっかんち)を拝領。塩焼王は藤原仲麻呂の乱764年で死ぬから当時生存していた。藤原清河邸や薬師寺も近く、一等地。

756年2月工事の途中であったが、聖武上皇が崩じ、造営は中断した。孝謙天皇は先帝の遺志を継ぐ。6月上皇を看病した法栄とともに鑑真は優遇されるが、医薬で貢献したか。鑑真は大僧都、弟子の法進は律師に任じられ、東大寺僧都の役職を務める。昇進した良弁と共に、僧綱(僧尼の綱維を保ち、諸寺を監督するために設けられた僧官の総称、僧正、僧都、律師)を主導する。

757年養老律令施行、橘奈良麻呂(諸兄の子)の乱藤原仲麻呂が制圧。権力奪取。

藤原四兄弟が737年天然痘で相次いで病死して以来、藤原家に代って橘諸兄が権勢を保ったが、光明皇后、孝謙天皇のバックアップで、藤原仲麻呂は政権、軍権を掌握して藤原家をいわば再興していた。そして橘奈良麻呂を制圧して、藤原仲麻呂はその権勢を確定した。藤原仲麻呂は鑑真に唐招提寺の食堂などを寄進し、歓迎した。その後、孝謙天皇は僧道鏡を寵愛し、仲麻呂と対立。仲麻呂は764年乱を起こし、斬首された。その前年763年に鑑真没。

話は戻って、聖武上皇崩御の後、孝謙天皇は勅して、唐招提寺の金堂等の工事を始める(現在の金堂ではない)。また、さらに勅によって、備前国の墾田一百町をもって、長く東大寺唐禅院の十方衆僧供養料に施すことになる。

唐禅院は東大寺戒壇院の北にあり、鑑真の住いであったが、また各地から集まる僧たちが授戒の後、とどまって戒律の修行を続ける間の生活費に、田からの税収を充てることになった。「供養」とは衣食住などを供給すること。そういう整備もされておらず、修行の途中で断念する者も少なくなかった。

上記田地は唐招提寺建立の財源にもされた。鑑真は唐招提寺に移るとき、この資産を東大寺に置いていかなかった。東大寺に寄付された所領ではなく、戒律を学門を支えるのが目的で、東大寺戒壇院に集約されていた授戒と研修の機能は唐招提寺に受け継がれた。

758年8月高齢の鑑真に僧綱職は忍びないとして。大僧都の職を解かれ、大和上の称号を受ける。

759年一番弟子法進が律師にとどまり、東大寺戒壇院の和上となり、鑑真が住んでいた唐禅院も譲る。鑑真は右京の新田部親王旧邸地を与えられて。戒院を興し、「唐律招提」の名を掲げた(のちの唐招提寺)「招提」とは本来、梵語のチャトルデイシャを漢字にして「柘闘提奢」となり、誤りを含め、「招提」となった。意味は各地から集まった僧の住むところ。僧たちに衣食を提供する施設。

孝謙天皇より「唐招提寺」の勅額を賜って山門に懸けた。そして、落成と同時に、天皇は詔を出して出家たるものはまず唐招提寺に入って律を学び、のち自宗を選ぶべしと宣した。

760年菩提僊那57歳で没、4月道璿は59歳で没、後世、道璿は華厳宗の初伝、禅宗の第二伝とみなされる。

761年日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置された。それでも各十人の戒師は揃えられず。

天平宝字七年763の春、鑑真の弟子で唐から従ってきた大安寺僧忍基(にんき)は、講堂の棟梁(むねはり)が擢(くだけ)折れる夢を見た。中国では古くより、仏殿や法堂の棟や梁が折れる夢は高僧が亡くなる前徴とされていたが、忍基も夢からさめてそれが和上遷化(せんげ)(死去)の迫ることを示すと知り、諸工をひきいて和上生前の風姿を写しとどめた。その年の五月六日、和上は西方の阿弥陀浄土に向かって坐し、静かに目をとじて禅定の境地に入り、波瀾にみちた七十六歳の生涯を終えた。

死してもなお三日間頭部は暖かかったため久しく葬ることができなかった。翌八年、朝廷は使を揚州の諸寺に派した。揚州ではどこの寺でも僧たちは喪服をつけ、三日間東に向って哀悼の意を表した。鑑真の長く住んでいた竜興寺では大斎会を設けた。後年竜興寺は失火で焼失したが鑑真の住した坊だけが焼けなかったという。

774年如法、法真の後を継ぎ戒和上となる

775年法真没

815年如法没 

如法は40歳ほど年少の空海(774年- 835年)とは親しい間柄であった。封戸50戸を得た際のお礼の表文を、空海が如宝に代わって執筆しており、これ以前より空海は唐招提寺と朝廷とを仲介する役割を果たしていたと見られる。

鑑真は一般に律宗の僧として知られるが、天台三部経(法華玄義・法華文句・摩訶止観)も将来しており、鑑真の教学は律と天台の二本柱からなっていた(このほか、禅の法門も伝えている)。如宝も律学の忠実な信奉者であり、律の弘通(ぐつう)(教えを広める)に身を捧げたが、のちには鑑真やその弟子ら共々天台学の弘通者として評価されている。

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