留学僧 栄叡・普照

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時は西暦742年、中国の揚子江河口の揚州に日本から中国、当時の唐に留学に来た僧が二人立っていた。揚州は唐の重要国際港として、チャンパ国、崑崙国、などをはじめとする東南アジア各国はもとよりアラブやペルシャなどから、交易を求めて、危うい航海をものともせずに世界中の人間が集まっていた。

玄宗皇帝の時代で、玄宗の統治は当初、制度的、対外的にも大変成功し、唐最大の版図を構え世界中の国々と交易していた。当時の日本は聖武天皇の世で30年前に奈良に平城京(約4km四方)が出来ていたが、まだまだ日本は後進国で、中国の律令制や文化の吸収発展に腐心していた時で、遣隋使から始まった遣唐使も危険な航海が伴うにも拘らず、733年第10回目の派遣で、中国からの最新の制度、宗教、芸術など文物吸収に大きく貢献していた。

今、揚州に立っている栄叡と普照は、この第10回目の遣唐使で海を渡ってきた。渡海からこれまで首都長安(東西10km、南北9km、現在の西安、シルクロード起点、100万人いたとも言われる)の大福先寺で仏教を修学していた。長安にいたこともあって、さすがに国際的なことには既に慣れていたが、それでも揚州の街を行きかう種々雑多な人々も、エキゾチックな雰囲気も日本とは全く異なっていた。しかし、二人には揚州の雰囲気を楽しむゆとりは全くなかった。

二人の僧がわざわざ10年に渡る修学中の長安から大運河を経由して来訪したのは、遣唐使船で来航する前からの日本の課題を果たすためであった。彼らは興福寺で修行していたが、唐への留学を言われたのは、興福寺で長老の隆尊からであった。隆尊は東大寺大仏の開眼供養にも参加した高僧であるが、日本の仏教界の戒律を整備することが必要であることを感じ、聖武天皇の第6子舎人親王に建議、その賛同を得て、栄叡と普照の二人に遣唐使について唐に渡り、戒律を授けることのできる僧侶の渡日を依頼せよという任務を与えた。

栄叡と普照は逗留した長安の大福先寺で道璿という僧に学び、留学僧として最新の仏教思想を就学すると共に、まず彼ら自身が正式な僧となるための戒を受けた。

唐の諸寺の三蔵(経、律、論の三蔵に通じた僧)、大徳(高僧)はじめすべての僧はみな戒律を授かって仏法の道へ入る正式な証としており、もし戒を受けずそれを守らないものは僧と認められなかった。しかし日本には正式な戒を授ける場所、戒壇もなく、授ける僧もいない状態だった。

二人は道璿に渡日し、日本でも正式な戒が授けられるようにと依頼した。日中の往来は勿論海路であるが、当時の船は脆弱で、勿論天気予報もなく、危険なことこの上もなかった。それでも道璿は引き受けた。留学僧の熱意が伝わったに違いない。普照と栄叡が乗った第10回遣唐使船は天平5年733年4月に難波津を発ち、奄美大島を経由して蘇州に4隻無事到着。この帰国便で道璿は来日することになる。734年10月遣唐使船は4隻同時に帰路に就くが、全て遭難。第1船は11月種子島に漂着(吉備真備、玄昉が帰国)、第2船、副使中臣名代の船は唐に押し流され、735年3月長安に戻される。唐の援助で船を修理し、736年11月インド人出身の僧菩提僊那やベトナム出身の僧仏哲と共に道璿はなんとか都に到着した。天平勝宝4年(752年)に東大寺大仏の開眼供養会(魂入れの儀式)が行われ菩提僊那は導師を務め、仏哲は舞楽を奉納した。また大乗仏典を持ち帰った大伴古麻呂は第12回遣唐使では副使となって再度唐に渡り活躍するが、吉備真備、玄昉の他、菩提僊那やベトナム出身の僧仏哲も鑑真来日後、再びかかわりを持つことになる。

 


普照と栄叡は第10回遣唐使船では帰国せず、唐に残り修学にいそしむ一方、道璿たちだけでは授戒に必要な僧が10人に届かないため、20年近く経った752年の第12回遣唐使船の帰国便で鑑真を伴って帰国することになるが、栄叡は帰国がかなわなかった。

渡来後の道璿は、北宗禅を広めるため、大安寺に「禅院」を設置し、戒律では『梵網経疏』を撰した。天平勝宝3年隆尊と共に律師となり。東大寺大仏開眼供養には呪願師となる。また、天台宗にも精通していた。後に、吉野の比蘇山寺に入り、修禅に精励し、山岳修験者にも少なからぬ影響を与えたとされる。弟子には行表(722年 - 797年)らが出た。行表は、最澄の師である。最澄の「四種相承」(天台・密教・禅宗・大乗戒)の思想は、道璿が伝えた玉泉天台(荊州玉泉寺の天台)の影響とされる。 

栄叡と普照が揚州を訪れた742年の6年前、既に道璿は日本で戒を授けることを大きな目的に渡日し活動していた。しかし、後述するように、戒を正式に授けるには10人の高僧が必要で、道璿と他の僧だけではまだ十分ではなかった。栄叡と普照は戒律を伝える僧をさらに日本に招く必要があった。

一方、栄叡と普照は既に10年近く長安で学んできたとはいえ、まだまだ満足するレベルではなかった。例えば、留学生の中でも阿倍仲麻呂(生年698)や吉備真備(生年695)は717年の第9回遣唐使で入唐し、742年時点では25年を既に中国で過ごし、唐の朝廷でも重用されていた。栄叡と普照も、まだまだ修学、精進して、現地でも認められる位のレベルに達したいと思っていただろう。

しかし、唐に来てからすでに十年が過ぎていた。もっと唐で精進する道も大いにあった一方、道璿だけでは、戒律を日本に確立するには足らないことも聞こえてきた。留学の中身にはまだ不満があったが、それを犠牲にしても、唐に来た大きな目的である戒律の師を日本に迎えるという使命の達成が必要なことは、二人にも十分分かっていた。そこで次の遣唐使船が来航し、その帰国便で戒律師と共に帰国することも選択肢としてあったが、もっと早く実現するため、二人は動いた。

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