第二回目 第三回目 第四回目

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栄叡と普照は話し合った。「伝戒の高徳をお招きすることが我々の本願であり、揚州府は勅を奉じて、日本人僧を日本に帰す、という。このまま高徳をお招きできずに日本に帰ることはできない。公の取り扱いを受けないで高徳と共に日本に帰ろう」

一方、大明寺にいた鑑真は全く渡日の意思変わらず言った。「心配しないでよい。何としても望みはきっととげさせる」。第二回目の渡航準備はすぐに始められた。

鑑真が出した八十貫の銭が渡航費用となり、軍舟一隻を購入、水手(かこ)十八人を雇い、食料を準備。

鑑真に従うもの、最初渡航に反対した祥彦(しょうげん)や、記録を書き綴る思託(したく)、日本僧、栄叡、普照を入れて17人。他に玉作人、画師、彫刻家、刺繍工、石碑工ら、水手と合わせ総員185人。

食料は落脂紅緑米(保存米)一百石、甜豉(味噌)三十石、牛酥(ぎゅうそ)(バターの類)百八十斤、緬五十石、乾胡餅(北方式の大焼餅)二車、乾蒸餅一車、乾薄餅一万番、捻頭(油炸餅)半車、

漆合子盤(漆の蓋物)三十具、

経典関係、金字華厳経一部、金字大集経一部、金字大涅槃経一部、その他雑経章論疎計一百部、

仏像類では画五頂像(五仏頂絵像)一鋪、宝像(宝物で飾った絵像)一鋪、金漆泥像一躯(金箔押しの塼仏か)、六扇仏菩薩障子(六折の仏菩薩屏風)一具、

また仏具類では月齢の障子(月齢を描いた屏風)一具、行天の障子(天人などを描いた屏風)一具、道場幡一百二十口、珠幡十四条、玉環の手潘八口、螺鈿経函五十口、銅瓶二十口、華氈(かせん)二十四領、袈裟一千領、褊衫(へんさん)(上着)一千対、坐具一千床、大銅盂(だいどうう)四口、竹葉蓋四十口、大銅盤二十面、中銅盤二十面、小銅

盤四十四面一尺面の銅畳八十面、小銅畳二百面、

薬品、香料(当時中国では区別が明確ではない)の類は、麝香二十剤、沈香、甲香、甘松香、竜脳香、胆唐香、安息香、桟香、零陵香、青木香、薫陸香、あわせて六百余斤。

その他、青銭一万貫、正炉銭一万貫、紫片銭五千貫、麻靴三十量、など。

工人を連れていくことで、重たく壊れる仏像を持参せず、また、日本で造立することができるように計らったとみられる。

人と物を満載した軍船は12月下旬揚州を出発、揚子江を下り、江口の馬蔵群島中の島々の間を弄ばれ、激浪などで座礁。積み荷はことごとく波にさらわれた。揚州を出て四十日目、官船に助けられ明州(浙江省寧波(にんぽう))へ連れていかれた。17人の僧侶たちは阿育王寺に収容され他の者たちはそれぞれの故国へひきあげさせられ二回目の試みは失敗した。

鑑真は越州竜興寺の僧からの依頼で講義や戒を授けに赴いたり、他の州もめぐって戒を授け、阿育王寺に戻ってきた。越州の竜興寺は鑑真の師、道(どう)岸(がん)が、かつていたところで、そこでの鑑真の敬虔な立ち振る舞いを見、越州の開元寺では鑑真と同門の高僧曇一(どんいつ)の謦咳に接し、杭州の竜興寺では鑑真の先輩、法(ほう)慎(しん)の高弟霊一(れいいつ)にも会った。

しかし越州の僧たちは鑑真が渡日しようとしていることを知り、阻止するために、首謀者栄叡を逮捕するよう州官に願い出た。栄叡はつかまり長安へ護送されようとしたが、杭州で発病し、療養のため、病死したという取り計らいで、からくも一か月後に逃げ帰った。こうして第三回目も中国から離れることなく終わった。

幾度もの災難、苦難がありながら、栄叡や普照の意思は固く、ひるむところがなかった。鑑真は栄叡らの固い意志をうれしく思い、必ずその願いを遂げさせようと決意していた。

江蘇・浙江からの出航は困難だとして、第四回目の試みは福州からの出発に変更。鑑真の弟子の法進と二人の近侍を福州(福建省福州市)に派遣し、そこで軽貨といって砂金や絹のようなお金の代わりになるものを持たせて、船を買わせたり、食料の準備をさせた。

鑑真たちは阿育王寺を出て、明州から台州に入り、天台山へ巡礼を装う。永嘉郡への途中、禅林寺とう寺に泊まった夜、鑑真たちは思いかけず採訪使(観察使)の牒(公文書)を持った役人たちに踏み込まれるという事件に見舞われた。役人の言うことによると、揚州の竜興寺にいる鑑真の高足で、江北では一名僧として知られて霊(れい)祐(ゆう)が中心となって、諸寺の三綱衆僧と相謀り、鑑真の渡日阻止の運動を起し、そのことを官に願い出てそのため鑑真一行の行方をさぐらせていた。霊祐は最初渡日の話が持ち出された時、鑑真の身の上を案じて、渡日ということには終始反対の態度を持ちつづけて来た人物である。役人たちは鑑真が逗留した寺の役付僧たちを拘束し、鑑真たちを追いかけてきて、禅林寺にそのまま十数日留めおかれた一行は、陸路を揚州に送遣されることになり計画は挫折。

鑑真が竜興寺に帰るや、これを伝え聞いた諸州の道俗は、毎日のように争って供養の品々を調達して賀を述べにやって来た。併し、揚州に連れ戻されてからの鑑真は、気難しく、無口になっていた。誰ともあまり会いたがらず、特に自分への好意的な妨害者というべき霊祐は、絶対に面接を許さなかった。霊祐は師の怒りを解くために毎夜一更より五更(午後8時ごろから約10時間)まで立って罪を謝し、六十日に及んだ。それでも鑑真の心は動かなかった。これを見かねて諸寺の役僧などが仲に立って詫びを入れ、漸くにして鑑真は瞼にうっすらと笑いを浮かべた。

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