第五回目
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栄叡と普照は第四回の失敗から同安郡(安徽省安慶付近)に住んだが、それから3年748年天宝4年2月下旬、同安郡から揚子江を下り、再び揚州の崇福寺にいた鑑真を訪れた。鑑真は5回目の渡日を決意する。
6月に出航し、舟山諸島で同行は祥彦しょうげん、思託したく栄叡、普照を加え道俗14人、水手18年、他35人。総勢70余名。将来品は天宝2年と同じものを集める。6月27日乗船と決めた。船は小さく、新河から揚子江、東に下って狼山へ。順風を待ち10月。数ヶ月風待った後、出航したが、激しい暴風に遭い、船は岸から遠く離れ、高い波の山に登り、深い谷に落ち込んだ。皆、船酔いに苦しんだが普照だけは毎日、食事時に生米を少しずつみんなに配って歩いた。しかし船には水がなくなり、米を噛んでものどが渇いているので喉を通らない。海水を飲むと腹を壊した。雨が降ると皆喜んでお椀に受けて飲んだ。
約1が月漂流の末、11月、遥か南方の海南島へ漂着した。今では中国のハワイと呼ばれる。北では冬だが、花が咲き、木々は実っていた。鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、役人に戒を授けたり海南島に数々の医薬の知識を伝えたり、滞留した大雲寺の仏殿を修築した。鑑真はここを出発するにあたり、すべての将来品を4カ月を過ごした大雲寺に残した。
一行は振州を発して四十余日目に万安州へはいったが、そこで珍しいものを見聞した。そこの土人の大首領馮(ふう)若(じゃく)芳(ほう)の歓迎を受け、その家に泊って三日間、供養を受けた。そこで見た馮若芳の生活は一行の眼を驚かすに足るものだった。その家では客に接すると、乳頭香(乳香か・カンラン科ボスウェリア属の乳香樹の樹脂。アフリカ東北部ソマリ海岸及アラビヤ海岸やインドで産出。最古の香料の一つ)を用いて燈火とし、一焼に百余斤を費していた。あとで知ったことであったが、この馮若芳は毎年付近を航海する波斯ペルシャの船を掠奪し、その財宝を奪い、その人を掠めて奴婢とすることを業としていた。その家の裏庭には掠奪品である赤、黒、白、紫 等の檀(だん)木(ぼく)(主として東南アジア原産の堅硬質の香木材、インドでは仏像は檀木のみ使われた。白檀、黒檀、紫檀など貴重品)が山の如く積み重ねられ、その他の財宝も同様に家の内外に堆高く置かれてあった。また彼は、劫掠して来た奴碑を集団的に住まわせ、彼の住居を中心にして、南北三日、東西四、五日の行程の間は、すべてそれら異国人の部落であるということであった。
予定より半月程遅れて鑑真の一行は崖州へ到着した。大使張雲の礼を尽した出迎えを受けて、城内の開元寺に入った。大使の張雲は自分で食事の采配を揮い、優曇鉢華の葉を菜とし、その実を僧侶たちに騒走した。
併し、この開元寺へはいってから三日目に、街に大火が起り、開元寺も類焼の厄に遇い、一同は焼け出されの身の上となった。大使張雲に請われて、鑑真はここで寺の再興に当った。病床にある栄叡を除いて、他の者たちはこの仕事のために忙しくなった。仏殿、講堂、塔等の伽藍を造らねばならず、その材木の入手が一苦労であった。
ところが鑑真が開元寺を建てるという噂を聞いて、振州の別駕馮(べつがふう)崇債(すうさい)は奴隷にそれぞれ一本ずつの用材を運ばせて寄越した。そのために三日問で必要な用材は全部集まった。寺は予定より早く竣工し、鑑真は余った材木で丈六の釈迦像を造った。新しい伽藍が竣工すると、豊真は登壇授戒などすべてを済ました。普照は久しぶりで峻厳な和上の風貌に接し、頬から流れ落ちる涙を止めることができなかった。多年に亘る流離の生活の中に少しも変わらず、その行く先々で寺を建て、戒を授け、人を度す和上が仏陀そのものに見えた。この日は病躯を押して栄叡もまた儀式に臨んだ。
ここから対岸の雷州に渡った時、当然一行はこれからの行程を決めなければならなかった。このままでは鑑真はどこか日本へ渡る良港を探して、そこを目指すに違いないと思われた。それから数日後、鑑真は崖州を去ることを発表した。大使張雲は和上に別れを惜しみ、澄適県をさして出発する一行を城外まで送り、県の役人をして船まで見送らせた。
栄叡は衰弱していた。鑑真らは半年余りを過ごした海南島を離れ、2日3晩で雷州へ。桂林へ向かい、湘江を下って、江南へ。桂林では都督(地方長官)が鑑真の来着を知り、徒歩で城外へ迎え、体を地に投げ、足を組み、礼拝して、一行を開元寺へ迎えた。
都督は自ら食事の支度をして衆僧を供養し、鑑真から菩薩戒を受けた。また74州の官人などが集まり都督に倣って菩薩戒を受けた。一行は3か月留まる。折しも南海の大都督などいくつもの肩書を持つ広州太守が鑑真を広州に招く。太守盧煥(ろかん)は唐代一流の名族、范陽の盧氏出身、秀才と精錬をもって聞こえ玄宗の信任厚かった。
栄叡、祥彦の死と鑑真失明
桂林から桂江を7日下り、梧州、次いで端州の竜興寺へ。栄叡遷化。
鑑真曰、「私が桂林を経て江南を目指したのは叡の健康を案じたからである。一刻も早く炎熱の地を離れたかったからである。また、こんど、広州からの招きに応じたのは叡の健康が回復したので、江南へ帰る代わりに広州へ行って、日本への船便を得ようと思ったためである。しかし、いまやすべてはむなしいことになってしまった」
大和上哀慟悲切なり。喪を送りて去る。
天宝8年暮れ 栄叡は竜興寺の裏の丘に葬られた。改元21年天平5年に入唐してから17年。渡日の試み8年。ついに異国の土となった。
一行は広州大雲寺に入る。珠江の河口で婆羅門、崑崙、波斯ペルシャの船がいた。港には獅子国、大石国、骨唐国、白蛮、赤蛮などの皮膚も目の色も違う異国人たちの姿が見られた。広州の地で一春を過ごし、北江を船で遡ること七百余里、韶州しょうしゅうへ。普照はここでこれ以上渡日の試みを説得する希望を持たず、一行と離れた。
国禁を犯している自分を顧み、咎の他に及ぶことを恐れて、ひとまず鑑真にわかれを告げ、嶺北に向かい、明州の阿育王寺を指して旅立った。750年。鑑真は普照の手を取り、悲しみに堪えず、涙を浮かべてこう言った。
「戒律を伝えようとして海を渡り、ついに日本につくことが出来なかった。いま本願を遂げることなく、ここでお別れをせねばならぬとは、誠に感無量です」
普照が立ち去った後、鑑真の眼光は日一日薄れ、ついに失明した。
祥彦(しょうげん)も他界した。病床にあった祥彦は突然起き上がると端座して、思託に和上が眠っているか尋ねた。思託がまだ寝覚めいないことを伝えると、祥彦は
「今、私の命数は尽きようとしている、和上にお別れがしたい」と言った。思託が鑑真に知らせると、鑑真はすぐ起き、香を焚き、曲几(きょくき)を持ってきて、それに祥彦をもたれさせ、西方に向かって阿弥陀仏を念ぜさせた。祥彦は素直に「南無阿弥陀仏」と一声唱えた。鑑真は「彦(げん)よ、彦よ」と声をかけたが、何もその口からは洩れなかった。
「仏像」山と渓谷社より
洛陽に戻った普照は大福先寺を開元24年以来訪れたが、師定賓は既に他界。阿育王寺で写経に励む。天宝10年752年、鑑真らが揚州へ帰着したことを聞く。鑑真らは江洲や南京などあちこち訪問した後、揚州城に入った。道俗は道にあふれ、出迎えの船は運河を埋めた。鑑真はもとのように竜興寺にすむ。崇福寺や延光寺でも律を講じ、戒を授けた。
鑑真の弟子 僧・霊祐は鑑真が江南に戻ってきたことを聞いて、迎えに出てきた。そして五体を鑑真の前に投げ出し、鑑真の足を抱きしめ、涙を流して言った。「我が大和上は遠く海東の国・日本に向かわれた。もう二度とこの世ではおめにかかれないと、自分に言い聞かせてきたが、今こうして親しくお目にかかることが出来ました。これはあたかも盲人が目を開き、太陽を見ることが出来るようになったこととおなじであり、戒律の灯火は再び明るく燃え、暗闇の町々は再び明るく輝くことでございましょう」
鑑真は元の竜興寺に住むことになった。南の果ての海南島から揚州に戻るまで檀を築き、戒を授け、一日として無為に過ごす日はなかった。今もまた、龍興寺、崇福寺、大明寺、延光寺等において律を講じ戒を授け片時も休むことはない。
昔は河南省光州の道岸律師が授戒の主と仰がれた。道岸が亡くなられた後は浙江省杭州の義威律師をもって授戒の師とされ、義威律師が亡くなった後は、開元21年733年、鑑真46歳、揚子江顆粒の江南江北を通じ浄持戒者と言われるのは鑑真ただ一人。