第六回目 最後の試み

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天平18年746年普照と栄叡が渡海した第10回遣唐使から天平5年733年から13年後に第11回遣唐使が計画されたが中止、天平勝宝4年752年、第10回遣唐使から19年経って第12回遣唐使が派遣された。大使 藤原清河 副使 吉備真備 副使 大友古麻呂。春の終わりに難波津を発した四船五百余人は寧波付近に7月上陸。

長安で皇帝の玄宗に拝謁した。753年の正月に長安の大明宮にて玄宗臨御の、朝貢諸国の使節による朝賀に出席した。

普照は大友古麻呂を訪ねて、鑑真を日本へ招く意義を説明、古麻呂は鑑真と共に招聘すべき唐僧の名前を提出させた。現在台州開元寺の思託、揚州泊塔寺の法進ほうしん、泉州超功寺の曇静どんじょう、揚州興雲寺の義静ぎじょう、衢州霊耀寺れいようじの法載ほうさい、思託、法載、曇静らは第一回の渡航計画いらい常に鑑真と共に流浪の生活を過ごした。(東野氏は鑑真を含む6名という数字は授戒に必要な10名の内4名は日本にいるということから決まったと考える。即ち僧正菩提僊那、大僧都業達ぎょうたつ、少僧都良弁ろうべん、律師道璿どうせん、隆尊の五名だが)

玄宗は鑑真の渡航に反対しなかったが、共に道士を連れて行くようにと言った。玄宗は仏教より道教に信仰が厚かった。道教は日本では行われていないので、使節たちは渡航の希望を取り下げ、一行の内、四人をとどめて道教をまなばさせることにし、鑑真の招聘は別個に解決することにし同伴の願いを取り下げた。

乗船地に向かう途中、清河、古麻呂、真備、阿倍仲麻呂は揚州の延光寺に鑑真を訪問し、鑑真和上に申し上げた。

 大和上が五回も海を渡り日本へ戒律を伝えようとなさったことは、前から良く存じ上げています。今こうしてご尊顔に接し、まことに喜びに堪えません。私たちは先に、皇帝陛下に対して大和上の名前と持戒堅固な五人のお弟子さんの名前を書いて、日本に行って戒律を伝えることをお許しいただきたい旨、申し上げました。しかし皇帝陛下は道教のお坊さんも連れてゆけとのことなので、日本の天皇陛下は道教を信奉していない旨を申し上げ、代わりに道教を勉強させるために春桃原ら四人のものを唐に留任させることにして参りました。そのために、大和上のお名前もまた取り下げてきました。

このうえはどうか大和上のご思案でお決めください。私たちには国信物(国家間で取り交わされる新書や品物)を乗せるための大きな船が四隻ございます。装備も十分に整っており、大和上がおいでになっても何ら困ることはございません」これまでの五回の試みの苦労を日本使節の四人がどの程度理解していたか分からないが、それでも鑑真は快諾した。第6回目の渡海の試みである。

日本使節の四人が鑑真を訪ねたことは穏便ではなかったらしく、竜興寺に対する役人の計画は急に厳しくなった。普照はできるだけ鑑真に会わないようにした。

10月19日に鑑真たちが揚州を発って乗船地の黄泗浦に向かうと知り、普照も向かった。鑑真一行が来た。普照は暗闇の中で自分の名前を言った。すると、すぐ闇の中から「照」と和上の声が応じた。普照はその声の方に近寄り師の手を取った。開元寺で別れるときそうしたように、普照は鑑真の骨太の、しかし皺だらけの手が、自分の

頬に、肩に、胸に触れるのを感じた。普照は感激の余り、一語も発することができなかった。

出航地に到着すると、鑑真は二度と会うことができないと自分を待っていた沙弥24人の望みに応じて具足戒を授けた。

鑑真に同伴するのは、

揚州(江蘇州)白塔寺の僧・法進、泉州(福建省)超功寺の僧・曇静、台洲の(浙江省)開元寺の僧・思託、揚州興雲寺の僧・義静、衢州(浙江省)霊耀寺の僧・法載、(広東省)開元寺の僧・法成等の十四人、藤宗(江西省)通善寺の尼僧・智首等の三人、揚州の有髪僧・潘仙童、西域の湖国人安如宝、南海の崑崙国人・軍法力、林邑の占波国人・善聴、みんなで24人。(和訳による)

将来(持参)するのは縫繡の普集会曼荼羅 一幅、阿弥陀如来の絵像 一幅、白栴檀の千手観音像、縫繡の千手観音像 一幅、救世観音菩薩の絵像 一幅、薬師如来像、阿弥陀如来像、弥勒菩薩像 各一体、それらの衝立、

金字の大華厳経 八十巻、仏名経 十六(十二)巻、金字の大般若経 一部、金字の大方等大集経 一部、南本涅槃経 一部四十(三十六)巻、四分律一部六十巻、法礪師ほうれいしの四分律疏しょ五本各十巻、の四分律疏 百二十紙、鏡中記二本、智首師の梵網菩薩戒の疏五巻、智顗の梵網菩薩戒義疏二巻、智顗の魔訶止観(計四十巻)、智顗の法華玄義、法華文句 各十巻、智顗の四教義 十二巻、智顗の釈禅波羅蜜次第法門 十一巻、智顗の法華三昧懺法儀 一巻、智顗の修習止観座禅法要 一(二)巻、智顗の六妙法門 一巻、律二十二明了論 一巻、定賓の四分比丘含注戒本 二本各一巻、大亮の義記 二本十巻、道宣の四分律比丘含注戒本 一巻、道宣の四分律含注戒本疏、道宣の関中創立戒壇図経 一巻、など合わせて四十八部。

玉環や水晶で飾った手幢 四口、金色の西国の瑠璃瓶(西域のガラス瓶)、菩提樹の実(数珠を造るため) 三斗、青蓮華の茎 二十本、鼈甲べっこうで作った皿 八個、インド製の革靴 二足、王義之の真筆行書 一帖、王献之の真筆行書 三帖、インドその他の言語による雑体書 五十帖、玄奘法師の西域記一本十二巻、肉舎利三千等。

玉環以下すべては来日後、宮中に奉納した。

二十三日に鑑真一行24人の四艘への分乗が発表された。鑑真及び従僧14人は大使清河の第一船、他の十人の同行者は真備の第三船、普照は古麻呂の第二船。しかし、その後鑑真一行は全員下船させられた。使節団の幹部から、もし広陵郡の役人が鑑真一行の渡日を知り、一行を捕らえると遣唐使船であり問題はうるさくなる、うまく出発できても、漂流でもして唐国に漂着すれば鑑真渡日が露見する。一行を下船するにしかずということになり、大使清河も自重し下船させることに至ったのだ。

茫然としている一行に対して、古麻呂は独断でひそかに自分の第二船に一行を収容した。

古麻呂は胆の据わった男であった。長安大明宮で正月、皇帝玄宗臨御の、朝貢諸国の使節による朝賀に出席したが、当初、日本の席次は西畔(西側)第二席、第一席吐蕃チベットの下であり、東畔第一席が新羅、第二席大食国(イスラム帝国)であった。すなわち新羅より下位に置かれていたことから、大伴古麻呂は「長く新羅は日本に対して朝貢を行っていることから席順が義に適っていない」として抗議し、日本と新羅の席を交換させた。

753年11月16日、4隻で帰路に就いた。第3船は11月20日に、第1・第2船は21、22日に沖縄本島(阿古奈派)に到達した。第四船は消息を絶った。3隻は半月を島に停泊したのちの12月6日、南風を得た3隻は本土を目指し、まず多禰国〈種子島・屋久島)を目標としたが、藤原清河と阿倍仲麻呂らの第1船は出航直後に座礁し、その後暴風雨に遭い安南(現在のベトナム中部)に漂着した。現地民の襲撃に遭いほとんどが客死する中、清河と仲麻呂らは天平勝宝7年755年6月に長安に帰還し、その後は唐に仕えたが、天宝勝宝8年には安禄山の乱で玄宗が一時都を追われるなど混乱し、日本には消息が4年後、伝えられた。

大伴古麻呂・鑑真、鑑真と同行した法進ら14人の僧侶・胡国人の如宝らを乗せた第2船は第3・船と共に天平勝宝5年12月7日に益救嶋(屋久島)に到達し、大宰府と連絡を取り、朝廷や大宰府の受け入れ態勢を屋久島で待つこと11日、12月18日に屋久島から大宰府を目指し出港する。翌19日に遭難するも大伴古麻呂と鑑真の乗った第二船は20日に薩摩国の秋目(秋妻屋浦/鹿児島県南さつま市坊津町秋目)に漂着12月26日に、大安寺の延慶に迎えられながら大宰府に到着。吉備真備の第3船は屋久島までは第2船と同行し、同じく出航したが19日の嵐で漂流し、紀伊国(和歌山県)太地に漂着した。

普照は第二船の人員が多くなったため、真備の第三船に替えられ無事帰国する。

第一回目の計画から足掛け12年、幾多の困難を乗り越えながら、栄叡、祥彦など36人が亡くなり、二百人余が去り、鑑真自身も目の光を失いながら、ついに初志を貫徹した。普照と天台僧思託も第一回から第六回まで12年を共にした。

鑑真に渡航をお願いしながら、出航直前に下船させてしまった大使清河の第一船は、その後、出航はしたが、日本へは帰れず唐に戻ってしまい、清河は望郷の思いを募らせながら唐で客死する。在唐35年で唐の高官となっていた阿部仲麻呂も第1船で帰国の途に就いたため、終生、唐ですごすことになった。

清河に黙って鑑真一行を乗船させた古麻呂の第二船は日本に帰ることができた。鑑真一行は第一船に乗ったままでは来日できなかった。下船させられ第二船に移ったたことによって結果的には、長年の渡航試み成功につながった。第四船は行方となって帰国できなかった。

鑑真が来日して暫く後、唐招提寺を建立するときに、清河の一族から不空羂索観音像とそれを安置する羂索堂が寄進された。筆者が想像するに、中国から出航するときに、中国官憲をおもんぱかって自分の船から一度乗船させた鑑真を下船させてしまったことを日本の清河一族が申し訳ないと思ったのではないだろうか。あるいはその因果応報で清河が唐に吹き戻され、帰国できなくなったと考え、その罪滅ぼしの意味もあったかもしれない。

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