金堂

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奈良西ノ京の静かなたたずまいの中に唐招提寺はあります。唐招提寺の山門をくぐると、正面に見えるのは。金堂です。金堂には、多くの場合、そのお寺の本尊が安置され、寺の中心であることが多く、唐招提寺でもご本尊が祭られています。一方、

唐招提寺の金堂にはいくつか特徴があります。

一つ目は通常金堂は最も重要なお寺の建物として創建時に建てられますが、唐招提寺の金堂は創建より遅れて建てられたと考えられています。

二つ目は金堂に収められるご本尊が他のお寺では見られない形であることです。

金堂は国宝で奈良時代(8世紀後半)建立の寺院金堂としては現存唯一のものです(奈良・新薬師寺の本堂は奈良時代の建築だが、当初から本堂として建てられたものではありません)。金堂の部材には天応元年(781年)に伐採されたヒノキ材が使用されており、建立はこれより後と考えられます。

唐招提寺は当時の中国・唐から渡来した鑑真によって建てられたものですが、鑑真の来日は西暦753年、鑑真は756年から東大寺内の唐禅院で暮らしていたが、759年(天平宝字3年)に唐禅院を弟子の法進に譲り、平城京右京の新田部親王旧邸地を与えられて戒院を興し、「唐律招提」の名を掲げた。「招提」は、サンスクリットのチャートゥルディシャ・サンガ(「四方」を意味するcāturdiśaに僧団組織を意味するサンガをあわせた語。現前する僧だけでなく、全ての僧のための組織を意味する)に由来する中国語で、四方から僧たちの集まり住する所を意味した。

その後、孝謙天皇より「唐招提寺」の勅額を賜って山門に懸け、天皇は詔を出して出家たるものはまず唐招提寺に入って律を学び、のち自宗を選ぶべしと宣しました。

鑑真が亡くなられたのは763年で、さらに18年以上経って金堂は建てられたことになります。

建てたのは鑑真と共に中国から渡来した弟子の如法です。如法の生年は明確ではありませんが、816年に80歳で亡くなったと思われる記録があり、736年生まれ、中央アジア出身で鑑真と来日した時は、わずか17歳という若さでした。正式な僧になるには20歳以上になることが必要で、来日後、正式な僧になりました。

鑑真亡き後、弟子の義静・法載と共に後事を託され、3人の協力によって寺の経営は行われ。如宝は、唐招提寺の外護者を獲得し、伽藍を造営したと伝わります。鑑真生前の唐招提寺は鑑真来日の目的である教学の研鑽に必要な講堂(それも内裏の古材を譲り受けたもの)など幾つかであり、現代見られる唐招提寺の伽藍は主に如宝によって整備され金堂もその一つと考えられています。

『招提寺建立縁起』に、寺内の建物の名称とそれらの建物は誰の造営によるものであるかが記されていますが、それによると、奈良時代の唐招提寺には、南大門、西南門、北土門、中門、金堂、経楼、鐘楼、講堂、八角堂3基、食堂(じきどう)、羂索堂(けんさくどう)、僧房、小子房、温湯室、倉などがあり、このうち、南大門、西南門、北土門、中門、金堂は鑑真の弟子でともに来日した如宝の造営、講堂は、平城宮の東朝集殿を移築したもの、

食堂(じきどう)は藤原仲麻呂家の施入(寄進)、羂索堂(けんざくどう)は藤原清河家の施入(清河の家の建物を移築した、もしくは清河の家族が建築費を負担した)です。

金堂の正面は8本の円柱が立ち、柱の間は吹き放しで、その間から、3つの主たる仏像といくつかの脇侍がうかがえる構造で、この建物の特徴です。

また、柱頭部より上を見ると、かつて頭貫・折上げ天井は、菩薩像や飛天をはじめ、数種の宝相華文、霊芝形の飛雲文などで鮮やかに色どられていたことがわかります。その文様の種類の多彩さは他に例をみないものともいわれます

現在の金堂には大きな仏像が三像、並んでいますが、その組み合わせは他では見られないものです。

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