金堂の三尊
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金堂内部の諸仏 すべて国宝 ウイキペディア
向かって右 薬師如来立像 369.7cm 木心乾漆 796年以降造立
真ん中 本尊 盧舎那仏坐像、304.5cm 脱活乾漆 759年前後造立か
向かって左 千手観音立像 535.7cm 木心乾漆 789年以前造立
尚、手前の2像もいずれも国宝で カヤの一木造 彩色 細部に乾漆仕上げ。
向かって右 梵天立像、186.2cm 左 帝釈天立像 188.8cm です。
三像を見ると右側の最後に完成した薬師如来が、他の二つの像とかなり異なります。真ん中の盧舎那仏は梵網経によれば、千花千釈迦をめぐらした蓮花台に出現すると説かれ、また一花には百億国があり、国ごとに一釈迦が住するという。それに従い千体におよぶ化仏を配した雄壮華麗な大二重円光をパックに、蓮弁毎に釈迦を描く八重蓮華座に座します。塑土で形づくった原型に漆を塗った数枚の麻布を貼りかさね、乾燥後に型からはずし、表面を木屎(こくそ)漆(うるし)で整形して完成する、いわゆる脱活乾漆造りで、人出もコストもかかるもので、『招提寺建立縁起』には、その造立にかかわった人物として鑑真と来日し、その一番の後継となった揚州僧義静の名前をあげていますが、実際に作成に当たったのは、日本の官営工房の工人達が携わったともみられています。台座内部には「造物部広足生」ぞうもののべのひろたりせい「造漆部造弟麻呂」ぞうぬりべのみやつこおとまろ「沙弥浄福」しゃみじょうふく「漆部雀甘」ぬりべのじゃつかんなど落書風の墨書銘が残されており、この人物たちこそが本像の直接の作者であったとみなされています。そして当時、官営工房には物部姓や漆部姓の工人も多く、彼らもまたその一員として、そこにつちかわれてきた伝統的技術 ― それは一昔前の中国からの移入でもあったが ー を駆使しながら、造像をおこなったものと思われる。あとで触れる旧講堂仏像群で知られる仏像はもっと唐風ですので、これら三像には日本人工人の手がより入っていると思われます。
廬舎那仏同様、豪華なのが千手観音です。
千手観音は千(無限を意味する)の手を持ち、手にはそれぞれ目が あり、衆生の願いを漏らさず見て、千本の手に象徴されるあらゆる手段でそれをかなえていくとされます。
御覧頂いてわかるように、本尊廬舎那仏と向かって左側の千手観音は非常に豪華でこれと比べると、右側の薬師如来像はぐっと地味です。薬師如来には千の仏や千の手はありません。如来は仏であり、菩薩はまだ仏になっていません。だから菩薩はいろいろな飾りも多く、如来像より見た目が派手です。薬師如来は、本来ですと月光、日光菩薩を脇侍において、病などで苦しむ世の中の衆生を救う如来です。如来は仏像の中でも最高位で、毘盧遮那仏は毘盧遮那如来という如来ですので、薬師如来と同じ最高位の如来です。一方、左側の千手観音は「菩薩」で、まだ「悟りを求める」ものなのです。金堂にこの三像を安置した如安には。考えがあってのことだったはずです。
盧舎那仏、薬師如来、千手観音の組み合わせは他に例がなく、経典にも見えないことからその典拠は明らかではありません。鑑真来日の目的は正式な僧にする「戒律」を授けることで、日本には当時その資格を持つ高僧が足りなかったのです。来日すると、東大寺にまず仮の戒壇院を造り、そこで聖武上皇、光明皇后、孝謙天皇に、そして次々に多くの衆生僧尼に戒律を授けました。その後、正式な東大寺戒壇院を造立、
さらに761年、日本の東西でもより多くの僧が戒律を受けられるよう、下野薬師寺(栃木県下野市)、筑紫観世音寺(福岡県太宰市)に戒壇を設立しました。(それでも授戒するのに必要な各10人の僧を確保できなかったために、より少なくても良いという特例を造りました)
東大寺(本尊は同じく盧舎那仏)、下野薬師寺、筑紫観世音寺を「天下三戒壇」と称し、唐招提寺の三尊はこの盧舎那仏・薬師・観音の天下三戒壇を表しているとする説があり、合理的な説明と感じます。