鑑真への渡日依頼
普照と栄叡はまず、長安の安国寺の僧である道航と澄観、洛陽の僧である徳情と、高麗の僧である如海とに、日本行きをお願いした。
大安国寺の僧、道航は、当時の玄宗時代に権力をふるった宰相・李林甫の兄である李林宗の家つきの僧である。栄叡と普照の帰国と律師を同伴したいという希望を聞いて、李林宗は日本の僧たちが「天台山へ行くのだ」という趣旨で揚州の役人である李湊あて手紙を書いてくれた。当時、出国は許可が必要で、万一官憲に見つかっても、言い逃れできるように計らってくれたのだ。また、大きな船と食料の準備をしてもらうことになった。また、栄叡と普照の一行には玄朗と玄法という二人の日本からの留学僧も加わり、長安を去り、陸路汴(べん)州、大運河をくだって揚州へ向かった。揚州は長安、洛陽に次ぐ大都会であった。
唐の天宝元年742年十月、日本の天平14年である。この時、鑑真は揚州の大明寺の住職で、54歳。衆僧のために戒律の講義をしていた。
鑑真は707年から長安で修行を積み、弘景について実際寺の戒壇に上り、具足戒を受ける。713年、故郷揚州に帰った鑑真は、だんだんと頭角を現し二十年後の733(開元二十一)年には、准河の南、長江の北(いまの江蘇省、安徽省あたり)で「大和上、独り秀でて並び立つものはいない」と評判されるまでになる。ひろく僧侶、俗人を問わず、受戒の大師と仰がれた。この間の鑑真の仕事ぶりは、『東征伝』や『延暦僧録』によると60巻の『四分律』と法礪ほうれいの解説書『四分律疏』の講義は四十回、道宣『四分律行事砂』の講義は七十回。同じく道宣の書いた「量処軽重儀」や「羯磨疏(かつましょ)」の講義は各十回、つぶさに戒・定・慧の三学を修め、広く五乗に達し《「乗」は悟りの岸に運ぶ乗り物で、教えの意、5種の教法》外には威儀を正し≪規律にかなった起居動作。また、その作法・規律≫、うちには奥理≪学問・技芸・武芸などの最も奥深い大切な事柄。極意。奥義≫を極めた。そのかたわら、寺舎を建立し十方の衆僧に供養し仏や菩薩の像を造った。寺舎を造るといっても、まるまる新しい寺を建てるというよりは、すでにある寺の中に、堂舎を追加する例が多かったようで『東征伝』が、「寺舎を造立して、各地の衆僧に供養」したと述べるのは、鑑真の造立意図が、主としてどこにあったかを物語る。諸方からやってくる僧たちに、宿を準備し食事に困らないようにするのが眼目だった。「供養」とは、この場合、衣食を提供すること。仏像、菩薩像を造る点では、その数無量。そのほか、鑑真が営んだ作善の行いとして、刺子綴りの袈裟千領と麻布の袈裟二千領を、文殊菩薩の霊場として有名な五台山の僧侶に寄付したり、無遮大会を開いた。無遮大会は、やってくる者に誰彼の区別なく施しをする法会。また、財源を設けて、貧しく病に苦しむ人々を救う事業も行う。写経の面では、仏典の全集である一切経を、三部も写させた。毎部一万一千巻。(「大唐和上東征伝和訳」より)
これらの事業を成功させるには、大変な財力が必要だったと思われるが、その源を考えるのに見過ごせないのが、『東征伝』にある次の記事である。
前後、人を度し戒を授けること、略計りて四万有余を過ぐ。
鑑真が唐を離れる前に、得度させたり授戒したりした人数が四万を超えるという。
たとえ少しオーバーな表現だとしても、相当な人数だったことは間違いない。この得度や授戒について、表向き料金が設定されていたとは考えられないが、その恩に感謝して、それぞれが志を差し出したでしょう。菩薩戒を授かる人の中には、中央から赴任してきた貴族や各地の有力者も、当然多く含まれていたはずで、得度や授戒に伴う収入は、おそらく莫大な額になったと考えられる。それは必ずしも金銭に限らず、さまざまな物資もあったと思われる。これらが先のような事業を支えたのでしょう。
『延暦僧録』(鑑真伝)によると
開元年中に於いて、崇福寺主僧明演、来たり白して云く、「今、崇福寺破れ落つ。請う、大和上、彼に降臨し、律を講じ戒を受け、修営功徳せんことを」と。この依頼は実現し、寺は無事修復されたが、寺の修造を目的にして、鑑真に講義と授戒をしてくれるよう頼むあたり、似たような事情がうかがわれる。こういう唐での状況をみると、中国でいかに早くから、仏教が一般に行きわたっていたかを実感させられる。官の主導や助けがなくても、有力者から庶民に至る多くの人々が、信仰に基づく喜捨で寺の造営や修復を支援し、仏教を支えていた。日本では、ようやく平安時代の後期あたりから、勧進による造寺造像などが盛んになってきますが、それができるような社会情勢が、中国では唐代に実現していた。
鑑真は、渡日にいく度も失敗しながら、そのつど中国政府からの援助もなく莫大な準備を調えたわけですが、背景には鑑真を尊敬してやまない上下の人々の経済的な支援があったはずです。鑑真が渡航の試みに失敗しながら、各地で人々の歓迎を受け授戒や講義を行ったことが伝えられています。
栄叡と普照は、鑑真の高名なことは十分聞いていたから、緊張した面持ちで決意を鑑真に伝えるべく大明寺に入った。弟子たちの前に座る鑑真の前に案内されると、頂礼(ちょうらい)(ひれ伏して頭を地につけ、その足下で拝む)し、自分たちの思いを告げた。
「仏教は東に伝わって日本に至りましたが、仏の教えはあるものの、それを真に伝える人がいません。日本には、昔、聖徳太子という皇子がおられて、二百年後に仏教が盛んになるだろうと言われたそうですが、今はまさにその巡り合わせにあたっています。どうか大和上、日本に来て真の御指導をして下さいますように」
この時、仏教伝来538年から数えてほぼ二百年となる。鑑真は答えた。
「私は聞いている。昔南岳の思禅師しぜんじ(魏の高僧慧(え)思(し)615-677. 天台第2祖)は亡くなられた後、倭の国の王子に生まれ変わり仏法を興隆し、衆生を救われたと。また、日本国の長屋王子(685-729天武天皇の孫)は仏教を崇敬し、千の袈裟を作ってこの国の大徳衆僧に施されたと聞く。その袈裟には四句が縫い取りされてあった。
住んでいる山川は異なりますが、風月天は同じです。
この袈裟を仏の子供たち(僧)に喜捨し、共に来世での縁を結びましょう。
こういうことを思い合わせると、まことに日本という国は仏法興隆に縁の深い国と思う。果たして私の仲間からどなたか、遠い日本国からの請い求めに応じて仏法を伝える者はいないか」と。
誰も答えるものはなかった。
暫くすると揚州崇福寺の祥彦(しょうげん)という僧が進み出て言った。祥彦は、居合わせた鑑真の弟子たちの中でも年長で、師の問いかけに誰も何も答えないのは失礼にあたると思い、一方、師の思いと別の真を述べることに躊躇もあったが、
「日本へ行くにはあまりに遠く、命がけです。広い海は果てしなく、百に一も成功することは難しいのです。経典にも述べられておりますが、人として生まれること、中国に生まれることは難しく、しかも我々は修行途中で、悟りにも至っておりません。それでみな黙って答えないのです。」
鑑真は静かに、しかしまっすぐ見据えて言った。
「これは仏法のためです。なんで生命を惜しもうか。皆さんが行かないのであれば私が行くばかり」
鑑真は生まれも揚州であり、今も揚州の寺の住職である。そこは世界中から人が海を渡ってきており、遭難の話も途切れることはなかったので、いかに航海が危険なものか十分知っていた。しかし、躊躇はなかった。
祥彦は驚きひれ伏して応じた「大和上がおいでになるならば彦もついていかせてください」と。これまで鑑真に長年付き従い、その深く広い知識や人のために尽くす徳、戒律にたいする厳しさなどに触れてきた祥彦は、鑑真の決意が固いことを感じとるや、自らも直ちに付き従うことを願い出た。
道興、道航、神頂、崇忍、霊粲、明烈、道黙、道因、法蔵、法載、曇静、道翼、幽巌、如海、澄観、徳清、思託等21人が鑑真についていくことを願った。
この中にはすぐに鑑真を裏切ったり、幾度かの失敗の後、離れて行ったりした者や、また、祥彦が懸念した通りの過酷な航海の連続を最後まで鑑真と共にしたものも、また、その途中で亡くなったものもいる。