鑑真来日後
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天平勝宝6年(754)2月1日鑑真一行は、難波に到着。大歓迎を受けた。まず、唐僧崇道らが出迎えた。僧が14名、尼3名、優婆塞らの計24名。この中にはイラン系ソクド人、安如法をはじめ、崑崙(東南アジアの黒人)膽波(ちゃんぱ)(インドシナ)ー東野「鑑真」のままーもいた。
鑑真には延慶(えんきょう)法師という通訳が付いていた。藤原仲麻呂の6男刷男よしおが出家した法師である。
2月3日河内国府 大納言正二位藤原安孫仲麻呂 歓迎使や道璿が派遣した弟子善談、他に志忠、賢璟など僧30人出迎え.
2月4日羅生門で正四位下安宿王あそかおう(鑑真が渡日の決意をしたときに言及した長屋王の子)が勅使として出迎え、東大寺に逗留、
別当少僧都良弁の案内で一昨年4月開眼供養の盧舎那仏を拝した。良弁は目の見えない鑑真に「唐にはこのように大きな仏像がありますか」と尋ねた。「いいえ」という答えのみが返ってきた。
2月5日唐の道璿とインド僧菩提僊那が、少し遅れて仏哲、右大臣豊成、遣唐大使清河の兄、藤原永手などの大納言仲麻呂以下の藤原氏高官百余人来訪。 平城宮内の僧50人も挨拶に来訪。
3月に天皇の勅を勅使吉備真備が伝えた。「高徳の和上が遠く海原を渡って我が国に来られた。これは誠に私の意に沿うものです。喜びこれにすぎるものはありません。私はこの東大寺を建てて既に十余年になりますが、戒壇を築いて戒律を伝えたいと願い、日夜このことを考えてきました。このたび遠くから高徳の和上たちがおいでになって、戒律を伝えてくださるという。これはわたくしの年来の願いと一致するものです。今後の授戒伝律のことはすべて和上におまかせします」
鑑真、法進、普照、延慶、曇静、法載、思託、義静らに伝燈大法師位が贈られるー天平の甍―
まだ忙しい3月に鑑真は良弁に手紙を送り、華厳経、大涅槃経、大集経、大品経を借ります。特に華厳経を転読(僧が順番に読む)のためにと。華厳経、大集経は各60巻、大涅槃経、大品経は各40巻。東野氏によればこれを転読するのを鑑真が聞いて内容をチェックしたのではないかと考える。「続日本紀」によると鑑真は仏典を暗記していて経典の校正ができたとある。これらの経典は天台大師智顗が究極の大乗経典と位置づけたもの。これに法華経を加えて「五部大乗経」といって尊重される。この年の冬から鑑真は仲麻呂の援助を受け、自身が持ってきた華厳経、大集経、大品経の写経事業を始める。日本仏教の水準を見極めようとしたのではないかと見ている。鑑真来日後東大寺の写経所では「勘経」(校正・校訂)が盛んになる。「四分律」も使われ、正倉院に一部が残る。
この頃の鑑真の自筆が現存するという。そのため、鑑真は来日時には目が見えたと言う。もしかすると、その後、見えなくなったのかも。
4月、鑑真は東大寺大仏殿に臨時の戒壇を築き、聖武上皇、光明皇太后、娘孝謙天皇から沙弥(サンスクリットのシュラーマネーラの音写。息慈などと訳す。出家して沙弥十戒を受け,比丘(びく)となるまでの修行中の僧。女子は沙弥尼)など、440余名に菩薩戒を授けた。天子授戒のあと、5月に恒久的な戒壇院建立の宣旨が下され、直ちに着工。大仏殿の西に戒壇院が落成し、戒壇院の北方に鑑真の住居である唐禅院が建てられた。
戒壇院が落成すると間もなく問題が起きた。鑑真が三師七証の授戒をして仏道入門の正義をなさんとするのに対し、鑑真を出迎えた賢璟(けんよう)、志忠(しちゅう)、霊福ら既に大僧と呼ばれていた僧たちが、自誓授戒で差し支えない、唐僧による戒を排そうとした。興福寺維摩堂で討論が決まった。鑑真の側は唐僧もいたが日本語が不自由であり、普照が対決した。当日、興福寺維摩堂には討論を聞こうとする僧侶たちが堂内に入りきれないほど詰めかけ、堂の周囲を埋め尽くした。午刻に賢璟らが入堂し、東側に坐ると、少し遅れて鑑真らが入堂し西側に座を造った。そして鑑真側では普照だけが一同より離れて、少し前に坐った。討論は程なく開始された。賢璟らは、『占察経せんざつきょう』を引いて論陣を張ったが、普照は『喩伽論(ゆがろん)』決択分(けったくぶん)五十三巻に基いて、経典に自誓授戒が許されていると言っても、それは僧になるときのことではない、そんなことを認めたら、僧侶の世界の規範が無くなってしまうではないかと述べた。賢璟らは口を閉ざして答えなかった。答えることができなかったのである。普照は二回答えを促した。依然として賢璟らは答えなかった。
その後、賢璟を初め八十余人の僧侶たちは、旧戒を棄てて、戒壇院において戒を受けた。賢璟は後年仏典全集一揃い、4200巻余を写させ唐招提寺に寄進。平安時代初めにかけて興福寺や室生寺を中心に活動し、大僧都となり、勅により西大寺に住して、八十歳で寂した人物である。
普照は東大寺に住み維摩堂で専ら開遮(かいしゃ)を説き律疏(りつしょ)を講じた。「延暦僧録」の著者である思託はこのやりとりを書いた後、皆は普照のことを徳とせず、かえって仇のように言ったが、日本の仏教界に戒律が行きわたったのは、全く普照のおかげだとほめたたえた。
日本への戒律の普及は一筋縄では進まなかった。